武家の新田家が機屋となったのは明治17年。
袴を織る機屋としてのスタートでした。
「米沢に紅花の新田あり」と言わしめた紅花染の復元で昭和40年の伝統工芸展に入選した三代目。
五代目の新田源太郎さんは、歴代の仕事を誇りに、それらを受け継ぎ、さらに昇華させるべくチャレンジを続けています。
米沢を訪ねると、まず足を運びたくなるのがここ新田です。威風堂々とした黒い木の門をくぐり、機音を聞きながら誘われる天井の高い囲炉裏の部屋、そこから丹精を込めた庭の四季折々の風景を眺めていると故郷に戻ったような気持ちになります。いつも快く迎えてくださる新田源太郎さんに、今回は、袴のことを詳しく伺いました。
「うちは、もともとが袴の機屋でした。三代目は紅花染で昭和40年に伝統工芸展に入選しています。それからの集積で…」と源太郎さんの説明が始まりました。
生まれたときから機音を聞いて育った源太郎さんは、いわゆる「修行」のために一度はこの実家を離れて京都の帯メーカーさんへ就職します。修行というととてもつらそうですが、修行を終えて25歳でここへ戻ってからのほうが大変だったそうです。毎日の失敗の積み重ねは、今となればすべて源太郎さんの財産になっています。
「分からないことはすぐに聞くことができて、自由に織ることのできる環境を与えてくれたのがありがたかった」と言う源太郎さんは2011年に最年少で伝統工芸展の入選を果たします。その頃、新田ではほとんど袴は作っていませんでしたが、出品作は初代からすべての強みを集積した袴でした。「千尋草」というその作品には、紅花染をはじめ百色もの糸が使われていました。
「紅花ももちろんそうですが、それ以外の天然染料も含めてうちは自社染料なので多色づかいが可能なんです」と、染めと織りの両方が自社で完結している新田の強みを教えてくれました。
居心地の良い座敷から機場へ誘われ、袴を織る機を見せてもらいました。
「これは、誕生日プレゼントにもらった機なんですけどね…」と言う源太郎さんに一同声をそろえて「えっ?誕生日プレゼント?」と言うと、「はい、オヤジから」とうれしそうな笑顔。機屋さんというのはそういうものなのかと感心するやらあっけにとられるやら。機はいわゆる米沢織の着物を織る機よりも経糸が長く張れるようになっていてとても堅牢な作りでした。
「経糸をピーンと張っておく必要があるんですよ。そうしないと口が開かない。(口が開かない:経糸がふんわりフニャフニャしていると緯糸の杼を通すための空間が作れないという意味)そしてピンと張るためには重しを使うんですが、その重しを使うためには機が頑丈じゃないとダメなんです」と教えてくれました。
最初に入選した「千尋草」、続く「時見草」、さらに「眺望」や「光華」といった作品はいずれも経糸の本数が8千本にのぼります。比較のために、大島紬では経糸の本数がおよそ1240本で幅はほぼ同じですから、どれほど細い糸を用いているかは容易に想像できるでしょう。さらに緯糸を力強く打ち込むことで、驚くほど高密度な織物が生まれます。その姿からはまさに「男の機織り」という言葉がふさわしい迫力を感じます。
座敷へ戻り、実際に袴の数々を拝見しました。ルーペを渡されて順にのぞくと「おおお」「うわぁ」と歓声やうなり声が次々に上がりました。遠目にはグレーっぽい地味な色にも見える袴ですが、なんという色数!
どのようにこの糸の配置を決めたり、図案をイメージしたりするのか尋ねると、奥から写真やら方眼紙やらを出してきて説明してくれました。
「こういう景色とかを見て、インスピレーションを受けると、それを図案にするんですよ。この景色をベースにイメージを取り入れて描いたのがこの図案です」と源太郎さん。わたしたちは無言でなんとなく曖昧にうなずきました。クリエイターの感性というのは凡人には見えないものをイメージできるのでしょう。
そういえば、新田の作品には筆で書かれた美しい日本語の作品名が付いています。それらもまた、イメージやインスピレーションから生まれるそうで、特集でモデルが着用した「雛の宵」は誕生日に機をプレゼントしてくれた父で会長の英行さんが命名、「五十騎紬」は、新田の旧町名から名付けたそうです。新田の住所は今は松が岬ですが、旧町名が「五十騎」で、上杉家家臣団のうち三手組に属する五十騎衆が配置されていたことから付いた町名で、上級家臣の屋敷町だった名残を感じさせてくれます。米沢はご存知のとおり城下町。兜に「愛」の文字でおなじみの直江兼続が作った城下町です。一大織物産地でありながら、ここが城下町であることを思い出させてくれました。
米沢で今から二百年以上昔に上杉鷹山の改革と殖産振興の一環として始まった米沢織は、麻による縮織にはじまり、養蚕、絹織物でも世界に誇れる一大産地へと発展していきました。相次ぐ移封で貧乏のどん底だった米沢藩を建て直した鷹山は、まずは質素倹約を、それだけではたちゆかなくなると殖産振興を始めます。みすみす損をすると分かっていても正直な生き方をするという意味を持つ「そんぴん」という米沢の表現は、もともと人をちょっぴりさげすんで言う言葉でしたが、今や褒め言葉になりました。正直に真面目に取り組むことで「無」から何かを生み出すことが米沢の人たちの魂の奥にすり込まれています。
有名なのは
為せば成る
為さねば成らぬ何事も
為さぬは人の為さぬなりけり
鷹山のこの言葉は、今もまったく輝きを失うことなく受け継がれていることを、源太郎さんの袴を眺めながら改めて実感しました。困難なことでも失敗を繰り返しながら実現してきた新田家。苦難の連続だった幻の紅花染再現も、源太郎さんの祖父母が日中は機織りの仕事をこなし、夜中に台所でコツコツと研究を続けた結果です。困難に立ち向かう諦めない気持ち。美しい物を織物に表現するアーティストとしての才能、新田の魂と才能は四代目英行さんへ、五代目源太郎さんへと確かに受け継がれているのです。
※本記事は『るると』に掲載されたコラムをもとにしております。内容はそのままに、読みやすさを考えて一部表現のみ整えております。