佐沼屋

2026.10.9

■ジャパンブルーの始まり


ジャパンブルーというと、サッカーの日本代表のユニフォーム、東京オリンピック・パラリンピックの粋なエンブレム「組市松紋」の藍色などを思い出します。ジャパンブルーの魅力はいよいよ世界中から注目を集め、着物ファンの間でも、藍染めは大変人気があります。では、「ジャパンブルー」と最初に言ったのは誰なのでしょう。NHKの朝の連続テレビ小説をご覧になっていた方も多いのではないでしょうか。2025年に放送された「ばけばけ」です。実は、明治23年に日本に来た小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、『知らぬ日本の面影』の中の『私の極東に於ける第一日』という著書の中で横浜に着いた時の第一印象を、「日本の人々が着ていた着物の色は紺色が大半を占めていた。その色はまた、店屋・店屋の暖簾をも支配している」と記しています。「ドラマの中ではそうでもないぞ」と思われるかもしれませんが、土壌が綿花の栽培に適していたことから発展する山陰三大絣のご当地のこと(弓浜絣〈鳥取〉、倉吉絣〈鳥取〉、広瀬絣〈島根〉)、実際に小泉八雲の見たドラマの舞台、松江の景色ももっと青かったかもしれません。そして、その本を読んだ外国の人たちが、そこに書かれていた「紺色」を「ジャパンブルー」と呼ぶようになったのが始まり。ジャパンブルーの愛称は、逆輸入だったのです。ドラマの中でヘブン先生(トミー・バストウ氏)が低い座卓に顔をこすり付けるようにして猫背になって、全力で書いていたあの「なにか」が「ジャパンブルー」の言葉の始まりだったのです。


 


■曲亭馬琴の南総里見八犬伝?


世界中にいろいろな藍がありますが、日本の藍は阿波(徳島県)の犬伏久助が天明元(1781)年に、藍染めの製法を改良することに成功し、現在の「蒅製法」を確立しました。まさに大発明です。その製法を独り占めせずに弟子を養成し、指導し、その普及に尽くしました。


品質が向上した阿波の染料は「本藍」と呼ばれて全国にその名が響きます。全国各地には青森県弘前市、岩手県盛岡市、山形県米沢市、東京都千代田区、静岡県静岡市、奈良県大和郡山市、熊本県熊本市などをはじめ、「紺屋町」という地名が今も数多く残っていますが、その屋号は「阿波屋」が最もおおかったといいます。


犬伏久助さん、「犬」が付くので、南総里見八犬伝の登場人物かと思いきや?まったく関係ない実在の人物で南総里見八犬伝の犬士のような玉も持っていませんが、「藍久さん」の愛称で親しまれていました。玉といえば、蒅は土のような質感でほろほろと崩れることから物流が難しく、お団子のように丸めていました。それが「藍玉」です。


 


■阿波藍を育む四国三郎、吉野川の恵み


坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)、そして四国三郎という異名を持つ日本三大暴れ川の三男坊が吉野川。吉野川流域では驚くほど高い台座の上にお地蔵さんが乗っているのをよく見かけます。1メートル以上の台に乗っているお地蔵さんがなんと200弱というから驚きです。中には4メートル以上の高さに鎮座するお地蔵さんもいます。これは吉野川がたびたび反乱した名残なのです。度重なる氾濫により吉野川流域は山間部から運ばれてきた多量の土が重なり肥沃な土壌となり、水分、養分を多量に必要とし「肥料食い」の異名を持つタデ藍の栽培に適した土壌を作り上げてきたのです。


一方、刈り取りと氾濫の時期がかさなることから米作りは行われず、藍の栽培は盛んになります。折しも、浪速(現在の大阪)で綿花の栽培が盛んになり、淡路島を挟んで対岸という地の利もあって、木綿を発色良く染め上げる藍が重宝されたことも追い風でした。利根川の上流の鬼怒川はかつて絹川とも呼ばれ、結城紬を育んだように日本の染織は、その土地の気候や風土に大きく影響されています。阿波だからこそ生まれた藍といえるのです。


 


■発酵食品を作ることに長けている日本人


一時は阿波藩に莫大な富をもたらした藍ですが、化学染料の影響や、時代の流れで、絶滅の危機に瀕していた時期がありました。


阿波藩の良さは、蒅を作り、四季のある日本で一年中美しい藍染めができるようにと考えだされた「天然灰汁発酵建て」という世界に類を見ない希有な染色技法にあります。酒、味噌、醤油、納豆、漬物、鰹節などをはじめ、地方に行けば、しょっつる、鮒寿司、へしこにくさやと枚挙にいとまがないほどの、さまざまな発酵食品を作ることに長けている日本人が生み出した染色の知恵というところは、大いにうなづけるところです。


藍はその大いなる発酵の力によるもので、阿波藍を育てて、蒅をつくるのが1度目の発酵で藍師の仕事、そして全国各地の染師たちが、瓶に天然灰汁発酵建てにより藍を建てるのが2度目の発酵で、瓶に糸や布を沈め、持ち上げると緑がかって見えるものが、酸素と化学反応を起こして藍色に染まっていく、この化学変化もまた太古の昔、どこかの誰かが発見したのだとすると、このロマンは藍の魅力の一つかもしれません。


 


■藍を守り抜いた佐藤家


隆盛を極めた阿波藩は、徐々に衰退の一途をたどります。佐藤昭人さんのお祖父さんの平助さんは、私財をなげうって藍の栽培、製造を続けます。佐藤家には先祖伝来の刀や鎧兜がありましたが、一つも残っていません。何もかも売り、投げだし、それでも食べられないときは、酪農などで家計を支えながらも藍を栽培し、蒅を作り続けました。しかし、第二次世界大戦下、ついに藍は全国からその製造を禁じられます。食べられないからです。「すべての畑は食べ物のため」として、芋の栽培が奨励されたのです。しかし、藍は一年草。栽培が途絶えれば藍の命もそこで絶えてしまうのです。


600年に及ぶ阿波藍の歴史に終止符を打つわけにはいかないと、平助さんは松谷の山奥に隠し畑を作り姪の岩田ツヤ子さんの協力の下、戦争が終わるまでの6年間、毎年命がけで藍を育て続け、藍の種を取り続けました。戦後、藍を栽培しているのは当然、佐藤家だけとなりましたが、種を周辺の農家へ分けたことで、再び藍の栽培が始まったのです。佐藤平助さんが命がけで守り続けた藍が今なお受け継がれているのです。


※本記事は『るると』に掲載されたコラムをもとにしております。内容はそのままに、読みやすさを考えて一部表現のみ整えております。